第35話:おぢさんは「マウント小学生」に対しても容赦はしない。

最近、小学生を中心に会話中
「はい論破!」などと言って、相手を
言い負かそうとする「マウント小学生」
が増えてきているそうだ。

テレビ朝日のニュース記事から一部を
抜粋すると、先月末、都内の家庭では、
母親と小学1年生の息子との間で、
こんなやり取りがあったらしい。

母:「宿題もっと早くからやって
おけば、良かったんじゃないの?」
 
息子:「それってあなたの感想ですよね?」

母親:「感想というか、えっ?教育的な指導
じゃない?これはと思いながらも、
モヤモヤします。自分が最後に
言い切らないと気が済まないみたいな。
何でこういう言い方になるのかな?と」

別の家庭では、こんなやり取りがありました。

母:「帰宅が遅くなるなら、
ちゃんと連絡して!」

息子:「じゃあ、ママが遅くなる時に
何時に帰るとか、どこにいるとか、
細かく連絡してきてるの?」

母:「…」

息子:「はい論破!」

相手を言い負かそうとしたり、
相手よりも自分が優位に立っている
ことを示そうとしたりする、
いわゆる「マウント」です。

今、こうした「マウント小学生」が
増えているといいます。背景には一体、
何があるのでしょうか?
(「グッド!モーニング」
2023年9月6日放送分より)  

この後、専門家なる大人が
色々と分析や対策を述べているのだか、
いやいや、こんなもん、
子どものヘリクツですやん。
昔から子どもは、こんな感じですやん。
かわいいもんですやん。
と、おぢさんは思ってしまう。

たしかに、西村ひろゆき氏の言葉に
乗っかった、流行り言葉を使ってはいるが
議論がしたいのであれば、その方が
感情でこられるよりも、おぢさん的には
扱いやすい。ただ、残念なことに、
先ほどのニュースの事例内容は
議論として成り立っていないように感じる。

先ほどのニュースの例をおぢさん的に
答えるのであればこうだ。

おぢさん:「宿題もっと早くからやって
おけば、良かったんじゃないの?」

息子:「それってあなたの感想ですよね?」

おぢさん:「感想じゃなくて、事実だよね?
早くから、宿題をやっていないという、
事実の話をしています。そもそも、
質問をしているのは、こちらなのだから
質問を質問で返すな。
聞いていることに答えろ。」
となる。

別のケースをおぢさん的に答えると

おぢさん:「帰宅が遅くなるなら、
ちゃんと連絡して!」

息子:「じゃあ、おぢさんが遅くなる時に
何時に帰るとか、どこにいるとか、
細かく連絡してきてるの?」

おぢさん:「質問を質問で返すな。
そもそも、細かく連絡しろとは言っていない。
遅くなるなら連絡しろと、こちらが問うている
のだから「はい」か「いいえ」で答えろ。」
となる。

お分かりいただけたであろうか。

どちらの事例も質問を質問で返すという
行為であり、意見を交わしてはいない。
聞きかじりで「論破」などと言ってはいるが、
そもそも、論じてもいないし、「破」も
されていない。何度もいうが、議論とは
お互いに意見を交わすことであり、
更に言えば、一問一答というのが
原則だと考える。このやり取りが
成立しないと会話は前に進まない。

ジョジョの奇妙な冒険第4部に登場する
吉良吉影が「質問を質問で返すなあーっ!!」
とブチ切れる有名なシーンがある。
質問者は、自分の質問に対する答えを
知ることが優先事項だ。その優先事項を
無視し、期待していたこととは全く違う質問を
されるということは、もはや会話は成立しない。
そのようなコミュニケーションをしてしまうと
「質問を質問で返すなあーっ!!」と
キラークイーンに木っ端微塵に
爆破されても文句はいえないのだ。

当の西村ひろゆき氏はX(Twitter)上で
「感想を事実のように言う人に
『それってあなたの感想ですよね』と、
言う事の何が悪いのかわからないおいらです。
事実と感想をごっちゃにしてたら卒業論文
通らないですよ、、、」と私見を述べている。

全くその通りだ。
先の例の場合、マウント小学生が
事実と感想をゴッチャにしている。
本来であれば、PDCAの
Do(実行)が終わり、Check(評価)
をし、Action(対策・改善)の部分を
どの様にしていくのか。と
親に問われているのだから、
マウント小学生は、それを
答えなければならない。
しかしながら、マウント小学生は非を
認めたくないばかりに、ヘリクツという
「議論もどき」を盾に逃げようとする。
このようなヘリクツに付き合う必要は
本来ない。

何故ならば、正義はこちらにあるからだ。

例題において、詳細は分からないので
前後で、どの様なやり取りがあったのかは
分かりかねるが、例題の部分だけを見ると
なぜ、この子たちの親は、こうも簡単に
引き下がってしまうのか不思議でならない。

あまり「自分たちの頃はこうだった」と
引き合いに出すのは好きではないのだが
おぢさんたちが子どもの頃は、
「お母さんだってやってるじゃん!」的な
子どものヘリクツに対して、
「大人は良いの!」と、もはや
議論ですらない、良くも悪くも
「ならぬものはならぬ」という
会津藩士「什の掟」を都合よく違約した
大人の理不尽が、まかり通っていた。

そう思うと、現代における
大人と子どもの距離感は近くなり、
大人は子どもを「個」として
認めているのであろう。

子どもを個として認めるのであれば、
なおのこと、遠慮ではなく、キチンとした
議論をすべきであろう。
そのうえで論破されるのであれば
それはそれとして認めるというのが
正しいあり方だと考える。

まぁ、結局、何が言いたかったのかというと

「可愛げ」って大事だよね!ってことである。

(2023.09.29:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。

第34話:おぢさんはセミから想定外への心構えを学ぶ

なんとなく、空気というか、
風のにおいが「秋のにおい」を
感じるようになってきた気がする。
あれほど、うるさかったセミの声も
どんどんと聞こえなくなり、
秋の虫の声が聞こえ始めた。

道端には、夏の虫たちが
よく仰向けになって落ちている。
とかく、弊社の事務所前、それも
玄関前によく落ちているのが
不思議でならない。
「弊社玄関前は虫の墓場なのか?」
そんなことを懸念したりもする。

夏の虫の代表と言えばセミであり、
当然のごとく、弊社玄関前には
仰向けになったセミが落ちている。
セミの命は一週間と言われるほど
短い。だが、幼虫として7年ほど
地中で過ごすことを考えると、
トータルの寿命としては昆虫の
中では長生きの部類に入る。
虫たちが、どのような考え、
生き方を幸せと思うのかは
計り知れないが、人間としての
感覚を当てはめるのであれば、
7年間地中で耐え忍び、
大空のもと、たった一週間という
短命だったとはいえ、精一杯
謳歌したのだろう。そう考えると
感慨深いものがある。そんな一生を
謳歌したセミを拾い上げ、
供養してあげよう。
そう思い、拾い上げようとした途端
「ジジジジジ!」と、
こちらに向かって突進をしてくる。
突然のことに思わず
「んがぁ!」とのけぞる。

このように、セミが
死んでいると思っていたら
急に飛び上がり突進してきて
びっくりしたという経験は
私だけではないはずだ。

このような現象を「セミファイナル」
別名「セミ爆弾」というのだそうだ。
この言葉は10年以上前から
使われているネットスラングのようだ。
セミが最期を迎える直前のあがきを、
英語でファイナルの直前を表す
「セミファイナル」にかけた。など
その成り立ちには諸説あるようだが、
語感の良さからテレビ番組やSNSなどで
その言い方が紹介されたことで、
瞬く間に広まった。とのことだ。
流行に疎いおぢさんには、
初めて聞いた言葉ではあったが、
この「セミファイナル」と
初めて名付けた方のセンスに
感動を覚える。

話が少し、それてしまったが
それくらい、この「セミファイナル」
という現象は「あるある」というか、
ポピュラーなものなのだろう。
地面に転がって動かずにいたセミが
突然飛び上がるのは、
死期が迫って体力が失われ、
弱って動けなくなっていたところに
人が近付いたことで防衛本能が働き、
物理的な反応として“逃げよう”とする
行動によるものなのだそうだ。
まさに、「最後の力を振り絞って」の
抵抗という訳だ。

では、この「セミファイナル」に
会わないようにするには、
どうしたらよいのか。

それは、
脚が開いていれば「生」。
脚が閉じていれば「死」。
なのだそうだ。

理由は、セミが死を迎えて
血液の流れが止まると、
体内から水分が失われて
干からび、筋肉が収縮して
脚が縮こまった状態に
なるからなのだそうだ。

しかしながら、
50歳手前のおぢさん。
「遠視の近視」という、もはや
遠くも近くも見えないという
個性を持ち合わせているため、
玄関先に落ちているセミの足が
閉じているのか開いているのか
確認をするには、落ちている
セミに対してかなりの接近を
しなければ確認ができない。
距離として50mmと
いったところだろうか。
そうなると急接近したおぢさんに
対して、「ジジジジジ! 」と
セミファイナルを仕掛けられ、
またもや「んがぁ!」と
のけぞることになる。
結局は何も変わらないのだ。

そんなに嫌なら関わらなければ良い。

これは全ての物事においての
原理原則ではあるのだが、
しかしながら、それなりの大きさ
である昆虫の亡骸がゴロゴロと
玄関先に転がっている「昆虫墓場」
の家、または企業というのは
いかがなものだろうか。

玄関先というのは、その家、
企業の顔ともいえる場所である。
そんな主たる場所が「昆虫墓場」
では、いささかよろしくはない。
かといって、限られた寿命を
精一杯謳歌した昆虫に対し、
足で蹴とばすような行為も
他を慮る日本のこころを
持ち合わせたおぢさんには
忍び難い。

虫たちに哀悼の意を表し、
しっかりと供養するという、
今までの行為。こちらは問題ない。

問題なのは、セミファイナルに対し、
「んがぁ!」と、ビビりなおぢさんが
ビビりたおすということが問題なのだ。

人生において。想定外の出来事。
こういうことは必ずある。
その時に対処するのは、他の誰でもなく
自分自身に他ならない。
だからこそ、特に「ここぞ」という
瞬間には、絶対に気を抜いてはならない。
あらゆる事が起こることを想定し、
そして、行動をしなければならない。
自分がアンテナを高く、深く意識を
していれば、そのような想定外の出来事
は回避できるはずである。
そんな「想定外への心構え」は
いかなる時も大切である。

歳をとったせいか、
先入観が強くなっている。
そんな慢心したおぢさん、
いや、人類に対してセミは
自身の最後の瞬間に「ジジジジジ!」と
セミファイナルを仕掛けることで、
身をもって教えてくれているのかも
しれない。

(2023.08.31:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。

第33話:メンドクサイおぢさんが最近引っかかった「新潟えだまめ盛り」について考える。

共同通信のニュースによると、
新潟は枝豆の作付面積が
全国1位なのだそうだ。

そのせいなのかどうかは
分からないのだが、兎角
新潟県民は枝豆の食べる量は
尋常ではないらしい。
他県の方から見ると、
一食でボールいっぱいに
食べるのは異常とのことだ。

そこに目を付けた新潟県は、
新たなPRを始めた。
新潟県のHPの言葉を借りると、
新潟はえだまめ王国という
イメージ確立を目指し、
えだまめのザル盛・大盛を
みんなで食べる新潟の食文化を
全国に広く周知するため、
「新潟えだまめ盛」と命名したそうだ。
新潟県内だけではなく、東京や
神奈川、埼玉などの首都圏の
居酒屋さんで同名のメニューの
提供も始めるとのことだ。

新潟県のPRのやり方や
ネーミングセンスについて
どうこう言う気はなく、
「へー。そうなんだ。」
「まぁ、新潟が盛り上がるといいね。」
ぐらいの感覚であり、批判をする気もない。

ただ、何かが引っかかる。
何かが気持ち悪いのだ。

「新潟えだまめ盛」の定義が
はっきりしていない。
ざるいっぱいとか、大盛を食べるなど
びっくりするぐらい抽象的。
そもそも、枝豆の量のどのぐらいからが
「新潟えだまめ盛」なのか?
その定義がはっきりとしていない。
となると、新潟えだまめ盛りと称して
提供する店舗によっては量にバラつきが
出るのではないかと懸念される。
しかも、「山盛りの枝豆」についての
ネーミングであるのならば、
「新潟県産の枝豆」でなく、
「他県産の枝豆」であっても、
「新潟えだまめ盛」として通用して
しまうのではないだろうか。
そもそも、大盛りの枝豆を
「新潟えだまめ盛」とネーミングして
よいのであれば、例えば、新潟は
米どころでご飯をいっぱい食べるから、
まんが日本昔ばなしのような山盛りご飯を
「新潟山盛りごはん」と名付けよう!
ってのも、まかり通ることになる。

何より、生産量や収穫量ではなく、
作付面積が全国一位というのが気になる。

気になる。気持ちが悪い。

気になって仕方がないので、
「枝豆 生産量 ランキング」で
検索すると、「野菜情報サイト
野菜ナビ」というサイトを見つける。
そのサイトによると、枝豆の産地
2021年のランキングで
収穫量が一番多いのは北海道で二位が群馬。
新潟県はなんと、七位なのである。

え。。。一位なんじゃないの?
うん。わかんない。
学の無いおぢさんには分からない。
新潟は枝豆をたくさん植えているけど、
あんまり実らないってことなのか?

まぁ、結果、世の中に出回っている
枝豆の多くは北海道産や群馬県産などであり、
新潟県産は一部であるようだ。
であるとすれば、「新潟は枝豆王国!」
というのであれば、おぢさん的には
少々気恥ずかしい。

北海道の人や群馬の人と首都圏の会合で、
「あ、新潟えだまめ盛をください!」
と、したり顔で注文し、「いやぁ、新潟って
枝豆王国なんだよねぇ。」なんて知らずに
言ってしまっていたとしたらゾッとする。
「は?七位のくせに?」とマウントを
マウントで返されるという、おぢさんには
この上ない屈辱を味わう結果になってしまう。
しかも、「新潟えだまめ盛」として出された
枝豆の原産地が北海道や群馬県産だったとしたら
目も当てられない。顔が真っ赤っかになって
消えてなくなりたくなる。

「新潟えだまめ盛」、なりより
おぢさんが引っかかる一番のポイントは、
そもそも「えだまめのザル盛や大盛をみんなで
食べる新潟の食文化」というものは
「大盛りの枝豆」のことをではなく、
「枝豆をたくさん食べる」という行為の
ことなのではないだろうか?
物量ではなく行為に対してネーミング
するのであれば、「新潟えだまめ喰い」
になるのではなかろうか。

それならば、しっくりくる。

これがおぢさんが感じた、
「新潟えだまめ盛」という言葉に対する
何だか引っかかる正体のようだ。

「枝豆 消費量」で検索をすると、
新潟は枝豆の消費量が日本一とのこと。
一番分かりやすかった「恋して新潟~観食遊~」
というサイトによると、新潟は消費量が一位、
作付面積も一位。なのになぜ、出荷量は七位なのか。
その答えは、「自分たちで全部食べてしまうから。」
つまり、地産地消されたものは、出荷量として
カウントされないようなのだ。このサイトによって
先ほどの「新潟は枝豆をたくさん植えているけど、
あんまり実らないってことなのか?」という
おぢさんの疑問は解決した。先に述べたような、
首都圏での会合で北海道の方や群馬の方との
マウント合戦になったとしても、エビデンスを
もって反論ができる。

しかしながらだ。
で、あるのならば、
えだまめのザル盛・大盛を
みんなで食べる新潟の食文化を
全国に広く周知するのであれば、
「盛り方」でなく、「食べ方」だろ。
と思ってしまう。

冒頭でも述べたが、決して新潟県の
この活動に批判する気は毛頭ない。
学の無いおぢさんが感じた
言葉の気持ち悪さを綴った
戯言であることを、ご理解いただきたい。

まぁ、結局、
何が言いたかったかと言うと

「枝豆って美味しいよね!」

っていうことだ。

(2023.08.18:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。

第32話:雑念の多いおぢさんは、心を落ち着かせることが難しい。

最近どうも、やる気が出ない。
何かとストレスを受けやすい現代社会。
自律神経でも乱れているのだろうか。
ゴールデンウィークが明ける頃に
疲れが噴出し、心と体に不調が現れる
というと、代表的なものが五月病だ。
もしかしたら。。と一瞬思ったのだが、
おぢさんの場合、基本やりたいこと
ばかりを追いかけているため、
少しばかり、やりたくないことが続くと
「やる気が出ない」と逃げの姿勢を取る
という単なる「わがまま」のようだ。

まぁ、多少なりにも自律神経が乱れている
という可能性も否定はできない。
そんな時は「深呼吸をする」ことで
神経を「整える」ことにしている。
これは幼い頃から、ジョジョの奇妙な冒険
を愛読し、波紋の呼吸法を研究していたこと。
また、小、中、高と武道の
剣道をやっていたということが
関係するのかもしれない。とくに、
剣道では練習の最初と最後に正座をして
黙想をするのだが、これが激しい運動の
前後に心のコンディションを整えるのに
最適な行為なのだ。

おぢさんが深呼吸をする時は、ゆっくりと
息を吸ってから、できるだけゆっくりと
20秒ぐらいかけて吐くようにしている。
体内の空気を全部吐き出すといった
イメージだろうか。これを何回か繰り返す
ことで、なんとなく心が落ち着いてくる
気がするのだ。特に、忙しい状態が
続いている時には、脳に強制的に
休んでいるという感覚を伝えるという
感じもあり、おぢさんにとって深呼吸は、
うってつけのアクションである。
特に就寝前のお布団でウダウダする時に
行う深呼吸は、おぢさんにとって心を
整える最適な行為なのだ。

そんな心穏やかに「無」になる行為を
行っていると、必ずといっていいほど
雑念が湧いてくる。それも、心の底から
どうでもいいことを考え始めてしまう。

「端午の節句に武者人形を飾るのは
なんとなく解るが、金太郎人形を
飾るのは何故なのだろう?」

5月ということもあるのか、そんな
どうでもよいことが浮かんでくる。
どうでもよいことなのだが、一度頭に
よぎると気になってしょうがない。

すぐさま調べて見ると、この金太郎の
話の元は源頼光の家来で四天王のひとりで、
酒呑童子を退治したことで知られる
坂田金時という、平安時代に実在した
お侍さんの幼名なのだそうだ。
時代を経て、いつしか金太郎は健康を表す
シンボルとなり、端午の節句に金太郎の
人形を飾ることで、金太郎のように、
気持ちの優しく健やかな子どもとして
成長してほしいという願いがこめられている
とのことで、なんとなく、ぼんやりと思った
おぢさんの仮説が合っていたことに少し
スッキリとしたのだが、すぐさま次なる
雑念が思い浮かんでしまう。

「童謡で、まさかり担いだ金太郎と
歌っているが、なぜ、斧じゃなくて
まさかりなんだろう?ってか、
斧とまさかりの違いって何だろう?」

すぐさま調べて見ると、斧とは、木を切ったり、
薪を割ったりする際に用いられるもので、
木の柄に鉄の刃がついているのが一般的。
まさかりとは、木を切ったり、木を削ったり、
時には固い野菜を切ったりすることに用いられる。
斧に比べて、刃の幅が広く、刃の片側がくびれて
いるものもある。斧より軽く取り扱いを片手で
行えることが多い。とのことだった。
斧やまさかりは、木を栽培、加工する際に
大変優れた道具であったことや、歴史的に
武器に用いられたこともある為、何かの象徴や
シンボルとして描かれることも多いとのことだ。
文章で書くとよく分らないが、おぢさんが
気になった、良く見る金太郎のイラストに
描かれているものは、まさかりではなく
斧であり、マサカリの形とは解りやすく
例えると「機動戦士ガンダム」に出てくる
ザクが持っている「ヒートホーク」のような
ビジュアルであるということなのだ。

まさかり担いだ金太郎

これは歌が間違っているのか、それとも
良く目にするイラストが間違っているのか
気になり調べて見ると、金太郎の伝説では、
雷神が山姥をはらませて出来た子供である
という話があり、中国の雷神がまさかりを
持った姿で描かれる事から、金太郎も
まさかりを持っているという説があるそうで
この伝説をエビデンスとするならば、
良く目にするイラストの方が間違っていた
ということになる。

そんなことを調べていたため、心を整える
ための深呼吸は、いつの間にか忘れている。
まぁ、私ぐらいの「波紋呼吸法研究家」の
おぢさんになると、ジョジョの奇妙な冒険
第二部でリサリサ先生から学んだように
無意識で波紋の呼吸を行っているため、
心配はご無用であるのだが、第一部で
ディオ・ブランドーの言葉である

「波紋?呼吸法だと? フーフー吹くなら
この俺のためにファンファーレでも
吹いてるのが似合っているぞッ!」

という言葉が今度は頭から離れなくなる。

まぁ、結果、妄想が駆け巡る
一見無駄に思えるこの時間が、
一番、心を落ち着けることが
できるのだと深呼吸を始めてから
雑念に明け暮れたこの意味もないと
言える時間を自分自身で肯定しつつ、
おぢさんは、いつの間にか
眠りに就くのである。

(2023.05.19:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。

第31話:明日やろうはバカやろうおぢさんは、いつまで経っても学ばない。

「明日やろうはバカやろう」

今日という日は今日しか来ない。
お前は、今日という日を全力で
生きたのか。今日という日を全力で
生きていないお前が明日、今日の
お前を超えられていると思うのか?

自堕落した自分に対し、
意識高い系の自分が問いかける。

それに対して、自堕落した
自分からの返答がこれだ。

「うっせ」

そもそも、明日出来ることを明日
行うことの何が悪いのかが解らない。
今日やらなければならないことを、
今日、精一杯やったうえでの明日だ。
明日出来ることを明日やることと、
今日を全力で生きるということは
イコールではない。
今日という日を全力で生きた結果の
明日だ。その辺りを混在し、論点を
ずらした誹判は納得しかねる。

そんな、どうでもよい自分の中で
行われた「おぢさん会議」の結果、
自堕落したおぢさんの意見が
承認された。

そんなこんなで、おぢさんの
「明日出来ることは、明日の俺よろしく」
という日々が続く訳である。

今や、パソコンは弊社だけではなく、
どこの企業にも欠かせないもの。
弊社のパソコンは古いOSの
ものなのだが、仕事上の機器が、
その古めのOSでなければ
起動しないため、騙しだまし
使っている。弊社だけではなく、
そのような零細企業がまだ多く
あるという事を以前にニュースで
見たことがある。

何よりも重要なのは、パソコン内の
データである。弊社パソコンは
そんな事情も相まっているので、
重要なデータは心配なため、
安全を期するために外付けHDDに
入れていた。

年末ぐらいから、外付けHDDの
起動する音が激しめになっていた。
「あー。そろそろ寿命かなー。」
そうは思いつつも、容量が
まだ半分ぐらいしか使っていないし、
まぁ、いいか。そのうちデータを
パックアップしよう。そう思っていた。

最近、パソコンの調子すぐれない。
そう思っている矢先に、モニター画面が
真っ暗になったまま、機動しなくなった。

「うわー。マジかよ。」

とりあえず、パソコンショップに
持って行き、修理の依頼をする。
その間、仕事もままならない。
出費と時間が痛い。
しかし、確かに痛手ではあったが
こちとら、酸いも甘いも経験してきた
おぢさんだ。多少プンスカは、
するものの、そんなことでは慌てない。
まだまだ余裕である。

この時はまだ。

パソコンが帰ってきた。
よし、今日からまた、一生懸命働こう。

「頑張れ私。今日も可愛い。」

そう自分を励まし、日常の業務に
当たるはずであった。

仕事上の大切なデータが入った
外付けのHDDを接続し、パソコンを
起動する。すると画面上には
「このハードウェアを
フォーマットしますか?」
的な文言が出る。

へ?

フォーマットするってことは
中のデータ、無くなっちゃうよね?
ダメじゃん。

文言も、ろくに読んでいなかったため、
何気なく「はい」を押しそうになるものの、
すんでのところで、回避する。

いやいや。 へ?マジで?
全身の毛穴という毛穴から、
変な汗が噴き出す。
今度は冷静では、いられない。

機器であれば、代替がきく。
なので、そうそうは慌てないが、
データとなれば別だ。
新たに作り直せば良いものもあるが、
作り直せないものもある。
それこそ、見積もりやら、売上やら、
顧客データやら。どうすんの?って話だ。
手のひらのビチョビチョが止まらない。

おぢさんが幼少の頃に、
ファミリーコンピューターが登場した。
言わば、家庭用ゲーム機が本格的に
普及し始めた時代であり、ゲーム機と
共に成長し、歴史を歩んできた世代である。

中でも、ドラゴンクエストは思い出が深く、
特に「ロトシリーズ」と呼ばれるⅠ、Ⅱ、Ⅲは
ガッツリやっていた。Ⅰで初めて、RPGと
いうものを経験し、Ⅱでは50文字を超える
復活の呪文に泣かされてきた。そして、
Ⅲで初めてのバッテリーバックアップによる
「冒険の書」にセーブするという
システムになった。

当時はまだ技術が発展途上の時代。
接触不良などで、すぐにデータが消失する。
リセットボタンを押しながら電源をOFFに
するという儀式が必要なほど、このセーブ
をするという行為は、赤子のやわ肌を扱う
かの如く、もっとも慎重に気を使わなければ
ならない作業であった。プレー中に、
おかあさんが掃除機で、ファミコンを
「コツン!」なんてやった日には、
不気味な呪いの音楽とともに、
【おきのどくですが ぼうけんのしょ1は
 きえてしまいました】と表示される。
私たち世代のおぢさんはトラウマとして
深く心に刻まれている訳である。

あれから、40以上の月日が経つ。
そんな幼少期のトラウマが一気に
噴き出し始めた。

バラモス戦の前にセーブした冒険の書が
【おきのどくですが ぼうけんのしょ1は
 きえてしまいました】となり、絶望を
味わったトラウマが。

なぜ、あの時、冒険書2か3に、
バックアップをしていなかったのか。

あれから40以上が経つというのに、
なぜ、いまだに愚かな過ちを
繰り返すのか。

「明日やろうはバカやろう」

すみません。今日という日を
全力で生きていませんでした。
ごめんなさい。
明日から粉骨砕身の覚悟で
生き抜く所存でございます。

自堕落したおぢさんは
意識高い系のおぢさんに謝罪をする。

この期に及んで、まだ後回しを
しようとするのかと、意識高い系の
自分はじっとりとした眼で、
自堕落したおぢさんのことを
見下すのである。

(2023.04.21:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。

第30話:おぢさんだから、少し肩書きにこだわってみようと思う。

私はあまり役職というものに興味がない。
何故ならば、私も一応経営者をさせて
頂いているが、年商何億と言われる
大会社であろうが、私のように吹けば
飛ぶような、毎月、お金の心配をしながら
泥水をすすっている人間も同じ「社長」
というカテゴリーに入る。つまり、
私のようなウンコみたいな社長よりも、
大企業の課長の方が、ステキだからだ。

私の中では「肩書き」と「役職」は
チョット違う。私の中での「役職」
とは、あくまで「仕事上の役」
という意味でとらえており、
「肩書き」というのは簡単に言うと
「あだ名」に近いかもしれない。
まぁ、厳密に言えば違うのかも
しれないが、「役職」が企業の
ポジションを表すものだとしたら、
「ハイパーメディアクリエーター」
など、自分の個性やスキルを前面に
押し出した、自由度の高い名前を
つけられるのが「肩書き」なのでは
なかろうか。

あだ名上の「社長」とか「部長」と
いう方もいらっしゃるので、その辺りを
混同してしまいそうだし、良く調べて
見ると「このおぢさんは、何を言って
いるんだ?」となるかもしれないので、
あくまで私の主観として捉えて
いただけると幸いである。

とはいえ、人という生き物は、
とかく肩書きにこだわりがちである。
とくに、私たち、おぢさん世代から
上の世代は、それが顕著かもしれない。
なぜならば、おぢさん世代には
自己顕示欲の強い方が比較的多い。
御多分に洩れず、おぢさんも
自己顕示欲が強く、また、
承認欲求モンスターでもあるので
もしかしたら、肩書きには、
チョットこだわるのかもしれない。

先ほども書かせて頂いたが、
私の中では「肩書き≒あだ名」
という感覚なので「その人物を
表すもの」つまり、「キャッチ
フレーズ」と一緒かもしれない。

テレビを見ていると何かと
キャッチフレーズが目につく。
特にスポーツの世界では顕著だ。
プレーに対して、キャッチフレーズ
というものは全く必要ではないが、
あれば、なんとなく感情移入が
しやすくなり、親しみがもてる。
一時期、有吉弘行氏があだ名で
ブレイクしたのも短いフレーズで
その人物を分かりやすく表現していた
ことが広く受け入れられたからであろう。

昔から私も自分にキャッチフレーズを
付けている。そうすることで、
自己紹介や自分はどんな人間であるかを
解りやすく説明ができるという
メリットがあるからだ。

そんな私が自分に付けたキャッチフレーズは
「常識ある野蛮人」というものである。

野蛮人とは、粗野で教養がない人。
不作法で粗暴な人。という意味だ。
しかしながら、私は幼少の頃から「武道」を
ならい、ゴリゴリの体育会系で育ったため
粗暴で教養がない訳ではない。むしろ、
他者を慮る日本のこころを持ち合わせた
「パカラー」である。しかし、見た目の
風体と、自分に納得のいかないもの
に対しては自分の意思を曲げないという、
病に近い、面倒臭いおぢさんであるが故、
どうしても振り払えない「野蛮」という
アクセントが付きまとう。という点から
そのようなキャッチフレーズを使っていた。

30代頃から使い始めていた、「常識ある
野蛮人」というキャッチフレーズ。
10年ぐらいが経ち、おぢさんも
いよいよ50代に片足を突っ込み
始めると、その言葉に違和感が出始める。
なぜなら、年を重ねることにより、
ライフスタイルも変わりつつある。
あまり、老いのせいにはしたくないが、
今まで出来たことが出来なくなったり、
興味があったものが無くなったり。
そして何より、こらえ症というか、
バイアリティーが無くなりつつある。
10年前であれば、「明日やろうは
馬鹿ヤロウ」と目の前のことを
一生懸命にこなしていたのだが、
最近では、「明日のことは明日の
私に任せよう」と逃げグセが
ついてしまい、翌日になると
「昨日の俺、マジふざけんな」と
憤慨する毎日となっている。

人は一度、逃げグセがつくと
なかなか直らない。
自分の中で消化出来ていれば
問題ないのだろうが、他人様に
迷惑を掛け始めては、それは
もはや「クズ」である。

そんな自分のクズさ加減に
しばらく憤りを感じていたのだが、
先日、動画にて相席スタートの
山添寛氏が「クズ紳士」という
キャッチフレーズで呼ばれていて
ハッとした。

私は特段、女遊びをする訳でもなく、
不義理をする訳でもなく、どちらかと
いうと面倒見の良い方。「クズ」と言う
ほど、お金にだらしがない訳でもない。
ただただ、自分にだらしがないだけなのだ。

「クズ紳士」というキャッチフレーズが
もしかしたら今の自分にピッタリなのかも
しれない。しかしながら、他人のモノを
そのまま使うというのも、はばかられる。

なんだかんだ、私は自分が大好きおぢさん。
私の良いところ、悪いところ。この陰と
陽によって、私という、おぢさんは
形成されている。おぢさんにおける
「短所」も言わば個性であり、大好きな
私の一部なのだ。

おぢさんは自分の中にある「クズ」を
愛おしく抱きしめ、いつか「クズ紳士」
を超えるキャッチフレーズを自分に
プレゼントしてあげたいと思う。

(2023.03.24:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。

第29話:おぢさんになると急に昔のことを思い出す。

仕事の休憩時間に、自動販売機で
飲み物を買おうと何気に見た
小銭入れの中にギザ10を発見した。

「ギザ10」

ギザギザのついた10円玉の略語だ。
久しぶりに見たギザ10に「ラッキー!」
と、なんとなく心が弾んだのだが、
以外と自販機などで使う時に、
反応をしないことが多い。
そんな時は、少しばかりイライラしたりと
「ラッキー」と、心弾んでいたのが
嘘のように、ジットリと沈んだ心になる。

このギザ10、なぜ昔の10円玉に
ギザギザがついていたのか。
気になり調べて見ると、当初、10円玉が
硬貨の中で一番、高価だったことから
他の硬貨と見分けがつきやすい様にと、
側面にギザギザを付けていた。
とのことだった。後に50円玉や
100円玉と、このギザギザの役目は
より値段の高い硬貨へと移っていった。
という話らしい。

ギザ10というと、「普通の10円よりも
価値があるもの」というイメージがある。
実際、昭和33年のギザ10が一番の価値が
あるらしく、一枚100円ぐらいになるそうだ。
確かに10円が100円と10倍の価値と、
非常に大きなものではあるが、元々の価値が低い。
血眼になって昭和33年のギザ10を探す労力を
考えると、他の事に尽力した方が良さそうだ。

だが、私たち、「昭和のおぢさん」世代には
「ギザ10は普通の10円よりも価値が
あるもの」という認識がより研ぎ澄まされ
「ギザ10は高価」という信仰心が
根付いている。この「高価」という価値観が
人を狂わせ、ギザ10の価値を崇高な
ものとし、崇め奉ることになるのだ。

私たち「昭和のおぢさん」が幼少の頃、
ジャンプやマガジンなどといった週刊誌の
裏表紙には、様々な広告が掲載されていた。
ひ弱だった青年が使うだけでムキムキの
マッチョになり、モテモテになるという
健康器具や、ドラゴンボールのように
身体に付ける重り。聴くだけで英語が
ペラペラになるという教材や、試験前に
あふれるように思い出すという、
驚異の記憶術などなどなど。
禍々しくも少年の心を掴んで離さない
甘美な広告が多数掲載されており、
幾度となく、小学生だったおぢさんの
お年玉やお小遣いは、その禍々しい
商品の餌食となり、消えて行った。
そのような広告の一つに「古銭高価買取」
といったものもあった。

当時、小学生のおぢさんは「ギザ10は高価」
という信仰を信じて止まなかった。
「ギザ10をたくさん集めて、大儲け」
そのような幻想を信じて止まない小学生の
おぢさんは、ギザ10特別な貯金箱に
貯めることにした。そして、ある程度
貯まったところで実行に移すのである。

週刊誌の裏表紙に乗っている
「古銭高価買取」の店舗に電話をかける
小学生のおぢさん。見知らぬ市外局番に
ドキドキしながら電話をする。
小学生のおぢさんは、大胆さと精細さで
震えるハートが燃え尽きるほどヒート
していたことを今でも覚えている。

電話の向こうでは、けげんそうな対応をする
お店の人。声も小さく聞き取りにくい。

「あのぉ。。えっとぉ。。」

けげんな大人に対し、泣きそうになる。
まぁ確かに、子どもがいきなり
よく分らない電話をかけてきたら、
単なる冷やかしと思い、そのような
対応になるのも分からなくはない。

お店の人の聞き取りにくい声を
何とか聞き取ったところ、
「ギザ10、一個20円、送料別途」
という回答であった。
確かに、普通の10円よりは価値がある。
しかし、送料別途となると話が変わる。
明らかなマイナスである。

「年数とかでも価値は違うだろ。」
今であれば、ブチギレながら、
理路整然にディペートに挑むところだが、
当時は小学生のおぢさん。相手は大人。
「はい。わかりました。」と静かに
受話器を置く。小学生のおぢさんには
いささか辛い体験ではあったが、
おかげで「ギザ10は高価」という、
信仰からのマインドコントロールは解けた。
集めていたギザ10は、特別な貯金箱から
他の硬貨と一緒の貯金箱に格下げとなり、
駄菓子屋などで普通に使われることとなった。

当時はコンプライアンスなど皆無と
言っても良いくらい、おおらかな時代であった。
駄菓子屋にはビックリマンチョコのシールや
ガンプラ、ミニ四駆の偽物が多数あったり、
当時のファミコンディスクシステムの
裏書き換え装置、先ほども書かせて頂いたが、
週刊誌の裏表紙には子どもたちが、いかにも
気を引く禍々しい広告たち。当時はバブル期。
大人たちは景気が良い時代だったはず。
しかしながら、子どもたちのお小遣いや
お年玉は大人たちの餌食となって行った
時代でもある。わざわざ、子どもの
ジャリ銭を狙わなくてもと憤る訳だが、
「団塊ジュニア世代」である、小学生だった
おぢさんたちには、それなりのマーケットが
存在していたのであろう。

懐かしい記憶を、小銭入れの中に
入っていたギザ10を見て思い出す。
淡い思い出をかみしめるとともに、
「高価な硬貨の効果」と韻を踏み、
ニヤけながら、自販機に投入する。

ギザ10は、相変わらず自販機に
反応をせず、今も昔も少しだけ
私をイラッとさせるのである。

(2023.03.02:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。

第28話:どうやらおぢさんは今年、年男だったらしい。

どうやら、年男らしい。私。
「これは、今年こそ飛躍の年に
せにゃならんなー」と思ったのだが、
あれ?ちょっと待て。はたして年男とは
そのような意味で合っているのか?と。
そもそも12年の周期で年男になる訳で、
そう考えると、「年男だが厄年」という
年もある訳で。12年に一度という、
ある意味区切りということもあり、
年男には「リスタートで飛躍の年!」
のようなイメージを勝手に描いていた
訳なのだが、別にそれだけであれば

年男関係無くね?
思い立ったが吉日なんじゃね?

と、今回4回目の年男となるおぢさんは
思う訳である。年男について様々な文献を
あさってみると、色々と説明はあるものの、
要約すると、結局は12年に一度の当たり年
なので、縁起が良いとも、厄年と重なる年が
あるから、あまりよろしくないとも言われている。
これは、ますます「どっちやねん!」と
突っ込まずにはいられない。確かに、年男は
12年に一度なので、社会的な地位、役割など、
色々なライフステージも変化していくのであろう。
そういう意味では、困難にぶつかることの多い
注意すべき年かもしれないと無理やり納得を
しようとはしてみたものの、「そんなん言うたら、
別に10年周期も同じだし、ますます年男
関係無くね?」と私の内なる「めんどくさおぢさん」
に論破されてしまう。とはいうても、年男は、
節分の神事で鬼を追い払う、豆まき担当であったり、
年始を祝う歳旦祭(さいたんさい)の初太鼓を
鳴らす人は年男から選ぶという神社もあるようだ。
つまり、重要な神事で、他の人より年男は、
他の十二支より多く年神様の力をもらえる年となる。
ゆえに縁起のよい当たり年とされているのであろう。
当たり年なので、何か不吉なことも起こりやすい
という人もいるとのことで、まさに、年男とは
ハイリスク、ハイリターンの年なのだ。

しかしながら、こっちとらビビりのおぢさん。
多少のリスク、リターンは好むものの、
ハイリスク、ハイリターンとなると好まない。
二の足を踏む。心が落ち着かない。まるで、
ジョジョの奇妙な冒険、第四部に出てくる
吉良吉影のように、できることならば、
静かに暮らしたいと願う小心者のおぢさんなのだ。
たしかに、人生にハリを与える「面白さ」
というものはイレギュラーから生まれる。
想定されたものよりも想定外のことが起きることで
人生の豊かさというものは形成されていくのであろう。
ただ。私の求める「想定外」というものは、
あくまで「対応可能な多少の想定外」なものなのだ。
まぁ、私の人生、「対応可能な多少の想定外」と
いっても、リミットギリギリの想定外ばかりで、
「もう、こうなったら楽しむしかないやん」と
半ば諦めに近い、腹のくくり方をする場合が多いが、
対応可能なことは確かだ。しかし、ハイリスク、
ハイリターンとなると、小心者のおぢさんイメージ
では、対応不可能なイメージとなる。
例えるならば、ドラゴンボールの孫悟空が
ナメック星に向うときに、時には、やりすぎで、
危うく死の淵をさまようこともあるが、重力の
重さを少しずつ上げながら修業に励むことで、
いつしか限界を超え、スーパーサイヤ人になっていた
というのが理想であり、いきなり死の淵をさまよう
のは、まっぴらごめんだ。ということだ。

まぁ、なんだかんだ、駄文を書きなぐってきたが、
うさぎ年の今年、うさぎのイメージから、
大きくジャンプ、飛躍するというイメージでもあるし、
やる気をアピールする絶好の機会であることは確かだ。
年男の恩恵を受けるためにも、今年の抱負というものを
掲げるのは大切であろう。

昨年はやりたいことをとことんやった年であり、
まさに色々なことにチャレンジした年であった。
今年はその色々なチャレンジしたものを一つずつ
精査し、次のステップへと進む年とする、言わば
広げた風呂敷をたたむ作業をする年にしようかなー
と考えていたが、先日友人と、そのような会話を
していた際に「いや、あなたは結局、やりたいことが
次々と出てくるから無理だよ。」と言われてしまい、
たしかに、今年もやりたいことをやりながら
突っ走るのかなぁと納得しつつ、そうなると、
年男のおぢさんにとって、今年の抱負というか
スローガンはプロレスラー中邑真輔選手の言葉を
借りると、「過去と戦って何が悪い。昔を超えようと
して何が悪い。未来は俺が作る。生きたいように生きる。
なりたい自分になる。それがプロレスラーだろ。以上!」
という言葉が思い浮かんだのだが、いやいや、あなた、
そんなん毎年ですやん!と終始、頭の中でリトルおぢさんが
ツッコミをループする訳である。

まぁ、結局、何が言いたかったかというと、
うさぎは寂しいと死んでしまうという諸説があるので
うさぎ年のおぢさんが孤独死をしないように、
今年も程良い距離でタワタワして行きたいと思うとともに、
皆様にもご配慮いただきながら、何かしら私のようなおじさん
のことを気にかけていただけると幸いである。

(2023.01.18:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。

第27話:違いのわかるおぢさんになるには確認を怠らないことが重要と気づく

とりあえず生で。

懇親会や会食などで、お酒を飲む機会が
ある時には、口にした方も多いであろう
鉄板のフレーズ。

ビール好きの方は「ビールに失礼」と
思われる方もいるかとは思うが、
これは、「何でも良いから、とりあえず生で」
と言う決してビールを軽んじた意味ではなく
「数ある好みはあるけれど、乾杯までの
流れをスムーズにするために一先ずは、
ビールを頼もう。」という、他を慮る
美しき日本のこころなのだと解釈している。
なので「お酒を飲めないからお茶で。」
という方以外で「私はカシスオレンジ」
みたいな1人だけ飲みたいものを頼む
他を慮らないスタイルの方には
私の中のダークネスおぢさんが現れ
「こいつは他を慮らないヤツ。」
というレッテルを貼り付けてしまう。

そんな習慣が身に付いているからなのかは
解らないが、私ぐらいのおぢさんになると
「生」という言葉に異常に反応を示し、
ある種の興奮を抱くのである。

先日、奥さんにお使いを頼まれ、
仕事帰りにスーパーへ買い物に出かけた。
玉子、牛乳、お肉、野菜。奥さんからの
指示されたものを買い物かごに入れていく。
その日の買いものリストの項目には、
「わさび」と書かれた項目あり、私は
奥さんからのミッションを、コンプリート
するため、わさびのある陳列棚に向かう。

ちなみに、庶民派である私の舌は
高級なお店に出てくる、一本のわさびを
サメの皮が貼られたおろし器で擦って
食べるような食べ方をする本格的な
わさびはあまり口に合わない。
なぜなら、確かに香りは良く、
鼻にツンとはするのだが、口に入れると
辛くは感じないからだ。
刺身を食べる時に醤油にわさびを
溶かして食べるような庶民派のおぢさん
には、安いわさびが良く似合うのだ。

話を戻す。
陳列棚には様々なメーカーのわさびが並ぶ。
さてさて、美味しそうなわさびはどれだと
わさびを眺める私はある違和感に気づく。

ちょっと待て。
わさびには「本わさび」と「生わさび」
と表記されたものがあるが違いは何?
どっちが何?となる。融通が聞かない
頭の固いおぢさんは、わさびの陳列棚で
プチパニックとなる。どっちだ。
私が奥さんからのミッションとして購入を
指示されたわさびは、一体どっちなのだ。
本わさびと生わさび、どっちを買うべきか。
この二択を間違ってしまった場合、
奥さんからは「使えない男」という
レッテルを貼られてしまう。
もしかしたら、折檻されるかもしれない。
私の足は恐怖で震える。

そんな時は「報連相」だ。

報連相とは、コミュニケーションに重要な
「報告」「連絡」「相談」の3つをまとめた
ビジネス用語だ。ビジネスの基本的な
コミュニケーションであり、迅速かつ
的確に行わなければならない。

迷った時は基本に立ち返るべきだ。
とりあえず奥さんに電話をかける。
あなたの所望するわさびは本わさびと生わさび
どっちなんだと。私は違いを分かっていない。
案の定、奥さんも違いを分かっていない。
どっちだと。どっちを購入すれば良いのだと。
私の質問に対して奥さんが導き出した回答は

美味しい方。

って、いや知らん。違いが分らんのに、
どっちが美味しいのかなんて知らん。
とりあえず、わさび購入に関する決定権は
私にあるらしい。そうなると話は冒頭に戻る。

そう、私は「生」という言葉に異常に反応を
示し、ある種の興奮を抱くのである。

そうなると「生わさび」一択だ。
生わさびを購入し帰宅をするのだが、
一度気になったものを解決しないと
こころのモヤモヤが晴れずに気持ちが悪い。

本わさびと生わさびの違いはなんだ。

結論からいうと、本わさびと生わさびの違いは、
本わさびは日本原産のわさび、生わさびは
本わさびと西洋わさびのミックス品で原材料と
なるわさびの種類が異なるそうなのだ。
どちらが辛いかと言うと、西洋わさびの
入っている生わさびの方が辛味は強いらしい。

「生」という言葉に本能的に反応した
おぢさんは、奇跡的にも好みの味を導き出した。

しかし説明文には、まだ続きがあった。
生わさびにも、また分類があるらしく、
「本わさび入り」と書かれているものは、
本わさびの使用率が50%未満。
「本わさび使用」と書かれているものは、
本わさびの使用率が50%以上とのことで、
西洋わさびの多い方が辛いということなのだ。

では、私の買った生わさびは50%以上か否か。
冷蔵庫に駆け寄り確認をする。
結果は「本わさび使用」と書かれた50%以上。

辛味の強いものが好みの私。
本来であれば「本わさび入り」と
書かれたものを買うべきであった。

いつもだ。いつもそうだ。
私はいつも大切なところで二択を失敗する。

迷った時こそ基本に忠実でなければならない。
なぜ、迷った時にすぐ調べなかったのか。
しかし、起こってしまったことは仕方がない。
「本わさびが多い方が香りも良いよね。」
とポジティブに捉えることにした。

ちなみに、本わさびも日本原産の品種で
あれば、中国やベトナム産でも本わさびを
乗ることができるそうだ。

世知辛い世の中を生き抜くためには、
常に気構え、確認を怠らないことが
必要のようだ。

(2022.11.11:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。

第26話:世に名を残したレジェンド達は皆、同じような言葉を語る。

男子たるもの、歴史上の人物に少なからず
憧れたりする。それはゲームであったり、
漫画であったり、幕末の志士や戦国武将は
都度キャラクター化され、私たちは過去の
偉人たちをヒーローと同じような扱いとして
触れる機会が多いからなのかもしれない。

10月27日は明治維新の精神的指導者
といっても過言ではない吉田松陰の
命日なんだそうだ。吉田松陰といえば、
歴史の授業や、時代劇などで見る機会も
多い幕末のレジェンドの一人であろう。
彼に触れる媒体を目にすることで得た
私のイメージは、松下村塾を開いた
聖人君子。という感じであったのだが、
何気に気になり調べてみると、相当な
勢いでヤベー人間だったようだ。
たとえば、21歳の時、親友と東北旅行を
計画を際、通行手形がなかなかもらえず、
友と約束していた旅行日に間にあわない。
そこで、しょうがないので死罪覚悟で
脱藩をする。という、まぁ、もしも私が
その親友だったら正直、ドン引きな行動を
とるのだ。その他にも、黒船が来航した際、
「外国留学するチャンス!」と捉えて、
勝手に黒船に乗り込み、密航させてもらおう
として盗んだ小舟でアメリカ艦隊に横づけし、
黒船のデッキに乗り込むはいいが、
当然のごとく追い返される。という、
完全にこんなん、マンガの世界ですやん。
とツッコミたくなるような行動を真剣に
行うのである。その後、吉田松陰は牢獄に
入れられることになるのだが、その時の
気持ちを一句詠んでいる。

「かくすれば かくなるものと知りながら
 やむにやまれぬ大和魂」

このようなことをすれば、こうなることは
わかっていた。しかし、それでも私を
行動に踏み切らせたのは、日本を想う心に
他ならないのだ。という意味らしい。
時代背景が現代と違うとはいえ、
現在で例えるなら、犯罪を犯した人間が
受刑中に作曲した歌を歌う。という、
ネットニュースで目にしたとしたら、
この人は、そういう心の病気なんだなー
という感想が出てしまう。ちなみに
吉田松陰は、生涯で何回も牢獄に
入れられており、最終的には前科5犯
だったそうだ。まぁ、この後に、
仮釈放になり、謹慎中に家で近所の人を
相手に講義を始めたのが、松下村塾らしい。
この松下村塾からは高杉晋作や、
初代内閣総理大臣伊藤博文など、
そうそうたる面々が育ったということを
考えるのと、それぐらいの気概がないと
当時の日本を変える礎なることは
できなかったのであろう。


今の時代ではチープに見えることも
当時の人たちからすれば、真面目も
大真面目。命を削りながら己の志のために
行動していたのであろう。
吉田松陰。最終的には、聞かれてもいない
老中暗殺計画を「あれ、俺がやったんぜ。」
と自ら暴露して、安政の大獄において
刑死者となってしまう。吉田松陰が
無くなった年齢は29歳。肖像画などから
おぢさんと同じぐらいの年齢だったのかな
と思ったのだが、以外と若かった。
彼の意志を継いだ弟子たちが力を尽くし、
松蔭の死後8年後、日本は明治という
新しい時代を迎える。次の世代に向けて
吉田松陰はこんな言葉を残している。

「諸君、狂いたまえ。」

現状に満足せず、常識という壁を
いつも自らの行動で壊してきた
レジェンドの言葉に、50歳手前の
おぢさんは何か心に刺さるものがある訳で。

Apple創立者のひとりである、
スティーブ・ジョブズも次世代の若者たちに
語った言葉で、

「Stay hungry,
stay foolish.」

ハングリーであれ、愚かであれ。と
語っている。また、先日亡くなられた
アントニオ猪木会長も同じように

「馬鹿になれ。とことん馬鹿になれ。
恥をかけ。とことん恥をかけ。
かいてかいて恥かいて
裸になったら見えてくる。
本当の自分が見えてくる。
本当の自分も笑ってた。
それくらい馬鹿になれ。」

というポエムを残している。
ニュアンス、やり方、時代は違えど、
世に名を残す人たちは、同じような
マインドであり、語る言葉も同じような
思想であるのだなと学ぶことができた。
今のご時世というか、時代が違うので
犯罪を犯す程に、愚かに狂うことは
難しいし、できないことである。
しかしながら、世の中に許される範囲で、
また、自分の限界を超えるという意味で
狂うことは可能であろう。
平穏の生活の中にイノベーションは訪れない。
どこか常軌を逸することで、良いアイデアと
面白さを伴うイノベーションが起きる。

発想では、すでに軽犯罪を犯しているような
アイデアを持ち合わせた頭のいかれた
おぢさんではあるが、時代の流れを
加味しつつ、人様にご迷惑をおかけしない
程度の狂気は出して行きたい。
そんな、僅かな狂気では吉田松陰のような
変革を起こすことはできないであろうし、
影響力も少ないだろう。

もし、狂気の出し方を間違えて人様に
ご迷惑を掛けてしまうことがあったと
したならば、おぢさんは吉田松陰の
言葉を借りてこう言いたい。

こうなることはわかっていたが
それでも私を行動に踏み切らせたのは
日本を想う心に他ならないのだ。と。

(2022.11.04:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。