第12話:新潟に住まうおぢさんがラジオ番組を持つことになった

ひょんなことから、ラジオ番組を持つことになった。
きっかけはこうである。

私は以前、亀田商工会議所青年部(亀田YEG)に在籍していた。
どのような団体かというと、商工会議所会員の若い人たちが地域のイベントやら、なんやらを盛り上げていこうぜ!とまぁ、ざっくり過ぎて関係筋の方に怒られそうだが、簡単に説明させていただくとそんな感じである。

で、亀田YEGでは毎週月曜日の午前11:15からFMにいつさんにて亀田YEGのメンバーが週替わりで
自己紹介やら、メンバーが、どのような仕事をしているやら、亀田YEGの事業内容を紹介するといったラジオ番組を持っていたのだが、そのラジオ番組がこの3月で終了するのだという。

「へぇー。なんか、もったいないねぇ」

そんな会話が発端だった。

「ちなみにあの番組の予算っていくらだったの?」
何気なく聞いた質問に対して、これこれ、これぐらいです。
と価格の返答を聞いた時に思わず、のけぞった。

「安っす!マジか?」

ラジオ番組と言えば数十万円するイメージ。
大手の企業さんでなければ、とても番組を持つことなど叶わない。
私のような零細も零細、「TOP OF THE 零細企業」の経営者からしてみれば、ラジオ番組を持つなど夢のまた夢。
それが月々のお小遣いぐらいの価格で番組を持つことができるというのだ。
そうなると、おぢさんの悪癖である「やりたがり」が止まらない。

「やるやる!俺がやる!」

後先考えず、得意である「その場の勢い」だけで、つい口走る。

こうなってしまうと、もはや自分で自分のことを止めることができない。
どんなにやらない理由を自分の中で並べて見ても、溢れるパッションが止まらないのである。

しかし待て。いくら自分の中で盛り上がっても先方あっての話。
「あぁ、その枠はもう決まっていますので大丈夫です。」
なんて言われようものなら、かっこ悪すぎて泣いてしまう。

「もしだったら、話くらい聞いてあげても良いんだからね」

溢れ出るパッションをしまい込み、冷静を装いながら、ツンデレ気味に、それとなく提案する。

すると、先方からは是非にと、ご連絡をいただき、すぐにでも打ち合わせをしたいとのこと。

「いやぁ、私、本業は看板屋さんなんですけど、「可能性創造研究所」という心理学の知識を基にコーチングや
企業セミナーなどもやっていまして。今後、そちらの方も力を入れていこうと考えている時に、このような話を聞いたものですから」

「ラジオ番組を持っていますって言いたい」
という小学生のような欲望から始まったものが、後付けではあるが、何ともそれらしい理由と思いを語る。

先方も親身に耳を傾けてくださり、トントン拍子に話は進む。
出演も基本はスタジオに伺っての出演なのだが、難しい時は電話での出演や録音なども可能だという。しかも音源はもらうことができ、こちらでYouTubeなどに上げても良いとのこと。
これはもう、完全にやるしかない。やらない訳がない。

打ち合わせの前に自分でも、それとなく調べてみると、亀田YEGが持っていた番組の放送枠が「トーク10分+リクエスト曲」というような内容で、プランを上げると30分番組を持てる。
しかも、これまた、お値段もリーズナブル。
ヤバい。むしろ30分番組やるか?私。

もはや、ノリノリを通り越して大暴走をしている。
先方にも、それとなく伝えたところ、できれば亀田YEGの後に入っていただけるとありがたいとのこと。

ですよね。新たな枠じゃなくて空いた枠を埋めたいですよね。
ふと我に返る。あぶない。話す内容もまだ決めていないのに30分も何を話すつもりだったのか。

「それでは、どのような内容の番組にして行くのか概要を決めて行きたいのですが」

先方はそれを一番話したかったのだろう。それもそうだ。
打ち合わせといいながら、どこの誰かも解らないおぢさんがベラベラと講釈を垂れている。
そんなおぢさんが、公共の電波で何を話すのか分からないなどという状態は恐怖以外の何物でもない。

しかし私は、自分の番組をどのようなものにするかは自分で決めたい我儘なおぢさん。
「あ、概要は私の方で作成して後日送らせていただきます。」
「それでは、番組名と番組内容を後ほどよろしくお願いします。」
と結局、おぢさんがベラベラと夢を語っただけという非常にカオスな打ち合わせを終了する。

後日送った内容として番組名は「可創研の男」。
番組概要は、「可能性創造研究所所長、上野が日常使える心理学の話をメインに地域のイベントや情報、時には雑談を踏まえながら、今日を生きる人に有益な半歩先の情報を伝える事を目指す」という、結局何をしゃべんねん。という内容だ。

昼下がりの真面目でオシャレな番組として、番組がどのように成長していくのか。
非常に楽しみな反面、私の「悪ふざけおぢさん」がどこまで封印できるのかという成長過程を放送する番組にならないよう心掛けたいものである。

(2022.03.25:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。


第11話:新潟に住まうおぢさんは、アンビバレントな世界で愛を叫ぶ

家庭環境のせいなのか、子どもの頃から何気に時代劇が好きだった。
「水戸黄門」「大岡越前」などおぢさんが幼少の頃、夕方になると時代劇の再放送があり、時代劇を見ながら夕飯を食べるということが幼少のおぢさんの実家では日課であった。
その中でも特に好きな時代劇だったのが「鬼平犯科帳」である。

当時、それこそ「水戸黄門」に見られる「勧善懲悪」のザ・時代劇と違い、この鬼平犯科帳は
「人間というのは妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く」
というようなフレーズが随所に出ており、取り締まる側である鬼平こと長谷川平蔵と取り締まられる側である盗賊が、別のものとして捉えられておらず、同じ人間として表裏一体であるということが描かれており、実に興味深いものであった。

そう、人間という生き物は白黒がはっきりしない曖昧な存在といえるのだ。

人間の感情には陰と陽がある。
好きなのに嫌い、可愛いのにいじめたい、大切なのに壊したい。
「愛情と憎悪」「尊敬と軽蔑」
そのような両面感情をアンビバレンス心理というらしい。

アンビバレントであることは、特別なことではない。
コインの裏表のように、心の中には多かれ少なかれ異なる感情が存在する。
それを無理やりに白黒つけようとするから、心に負担が掛かる。
二つの感情を共存するものとして認識せず、どちらか一方を抑圧して見ないようにしてしまうことで、心に葛藤が起こる。

人間の心理は浮き沈みがあるように、この両面感情もその都度の強弱がある。
例えば、親に「勉強しなさい」と言われると「今やろうと思っていたのに!」と六割ほどあったやる気がゼロになった経験はないだろうか?
アンビバレンスな感情が強くなっている相手に何かを強要すると、正反対の行動を取ってしまうものなのだ。

時代劇、鬼平犯科帳における中村吉右衛門演じる長谷川平蔵は曖昧という矛盾を「そういうものだ」と全肯定する。
その上で、自らの役割で決断すべきところは、断固たる態度で臨む。
組織のリーダーとして、そのような「アンビバレンス心理」を理解し、巧みにメンバーのモチベーションを高めていく。

そこに痺れる、憧れる。

人は皆、矛盾する気持ちの中で心が揺れ動いている。
人間とは何と面倒臭い生き物であろうか。
ゆえに面白い。

そんな面倒臭さをこじらせているのが私なのかもしれない。

たとえば、私はどちらかというと偏食な方である。
偏食と言っても
「食べただけで体に支障をきたす」
嫌いな食べ物は少なく、多くは
「食って食えないことはないが、出来るだけ食わないで済むよう立ち回りをする」
という嫌いな食べ物がほとんどである。
その代表が「トマト」だ。

あの何とも言えない食感と独特な青臭さ。
嫌いな人間にしか分らないだろう。
「このトマトは野菜というよりフルーツだよ」とか、「この野菜ジュースはトマトの味がしなくて美味しいよ」と時折、おせっかいをやいてくれる方もいるのだが、余計なお世話と少し不快に感じてしまうことがある。
フルーツトマトだろうがミニトマトだろうがトマトはトマトだ。
野菜ジュースにおいても隠しているつもりであろうが、トマトは激しく主張してくる。

しかしながら、私はケチャップが大好きなのだ。

パスタは必ずトマトソースのものを食べるし、ピッツァはマルゲリータ1択だ。
トマトジュースも絶対に飲まないが、料理に入れるのは全然OKなのである。

嗜好においても、このようにアンビバレントは発生する。
と、もっともらしいことをユーモラスにまとめようとしたが、どうやら、好みのクセが強いだけなのかもしれない。

その他にも、
「別に、あなたのことなんか好きじゃないんだからね!」とツンデレを出したり、生粋のMなので、イジられるのは好きだが激しめにイジられるとブチぎれたりするため、
「あなたはMではなく、ちょいM、どSだ」と日常におけるアンビバレントはおぢさんの中にまだまだ多数存在する。

現代社会では何かと白黒つけたがる傾向がある。
そもそも、日本人は「曖昧なものは、曖昧なものとして認識する」という一つの精神文化があったかと思う。

心とは白と黒だけではなく、様々な色で彩られている。
そんな「白でも黒でもない俺たちはGLAY」という黄金の精神をもったおぢさんは冷静と情熱のあいだというアンビバレンスな日常を今日も楽しく過ごさせていただいている。

(2022.03.18:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。


第10話:悪ふざけおぢさんは懲りもせず今年も「新潟劇王」に参加するらしい

以前コラムで昨年「新潟劇王」に出場した話を書かせていただいた。

エントリーをするか否か。
私が所属をするユニット「ニイガタ工務店」のメンバーと協議を行う。
聞いたところによると現状、出場定員の半分ぐらいのエントリーとのこと。

「じゃあ、今回も出ちゃう?」
何事もノリが優先の私たち。そんなこんなで今年も「新潟劇王」にエントリーをさせていただくこととなった。

「今年もエントリーさせていただきたく存じます。よろしくお願いいたします」
必要事項をメールにて送信。すると、事務局より返信が来る。
「現在、エントリーが多数のため、厳正なる審査と出来るだけ多くの団体に参加いただけるよう調整中です。追って返信させていただきますのでしばらく、お待ちください」
ん?マジか。思っていたんと違う。
まぁ、エントリー多数ということは私たちのような「悪ふざけおぢさん」は選考の段階で落とされるだろう。と高をくくり、エントリーを取り下げなくても、まあいっか。と私の悪癖である楽観主義を全開に数日が経った。

後日、私のもとに届いた返信内容は「厳正なる審査の結果、参加いただきたく内定となりました」とのことだった。

ありぁま。出場が決定しちゃった。
まぁ、いいか。元々出場する気だったので問題はない。
昨年も出場しているし、流れ的なものは心得ている。
しかし、その後に続く依頼が昨年と少々違う。

「チラシ作製にあたり、必要事項をお送りください」
はいはい。昨年と同じね。心得ておりますよ。
と内容を確認すると昨年は団体PRを記載していたものが今年は作品あらすじを記載となっている。
マジか。なんとなくの構想は頭の中にあるのだが、はっきりとした作品あらすじなんぞ、どこにもない。
しかも返信締切も短く、明日明日には送ってほしいとのこと。

ヤバい。ヤバい。こんなはずじゃなかったのに。いざとなると猛烈にあせる。

「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ」と自分の中のシンジ君を奮い立たせ、「あなたならできるわ」と無責任な励ましをしてくる心の中のセイラさんに「おだてないでください」とアムロで返す。

さてさて、まずは概要を決めよう。
昨年もそうだが、ベースは命の尊さを伝える。
そこにユーモアなバイオレンスをエッセンスにするという、私らしい、私なりの尖り方。ここは継承しよう。

では、次に昨年との違いをどのように出すか。
人は一人では生きられない。
誰しもが必ず他者との関わりを持って生きている。
関わりを持つということは、常に人は他者や社会環境から何かしらの影響を受けることとなる。
その影響は果たして正しいのだろうか。
私たちは正解のない世の中に生きている。
世論、イデオロギー、政治、戦争、人のあらゆる営みに、唯一の真理や正義など求めようがないのだ。
しかし、他者と関わり、生きるということは、ルールというものが存在する。
ルールを犯した者には基本、ペナルティーが発生する。
たとえ、そのルールがどんなに理不尽であったとしても。
もしかしたら、この社会における懲罰制度というものは、捏造された社会的虚構に過ぎないのかもしれない。

と、まあ、我ながら、深いことを考え始めたもんだ。
哲学ですやん。
しかし、悪くない。これだ。この流れで行こう。
たしか、こんな感じの内容が聖書にあったよな?と検索する。

あった。

「人を裁くな。
あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる(中略)

聖なるものを犬に与えてはならない。
また、豚の前に真珠を投げてはならない。
豚はそれを足で踏みつけ、犬は向き直って、あなたがたを引き裂くであろう。」
(マタイによる福音書 7:1-6)

うむ。
なかなかイメージとピッタリくる。
とりあえず、この聖書の一文をあらすじとして掲載しよう。
タイトルは。。。そう!「命の選別」としよう。
ヤバい。面白そうだ。自らハードルをガンガンに上げまくっている。
特に今年は昨年より、格式が一段上がっている気がする。
参加も二年目となると、勢いだけで乗り切るという訳にもいかない。
しかも、出演するメンバーは「セリフなしで」とか「覚える気はあるけど多分、覚えられません」など、あなたの道楽に渋々付き合ってあげますという当事者意識の欠けた強者達だ。

これは中々ゾクゾクくる。Mっ気満タンだ。
これは「マゾ」のMなんかではない。
これはきっと、「ミラクル」のMなのだ。
そう自分を奮い立たせながら、M気質のおぢさんはこれから起こるであろう「奇跡」に向けて、散らばったパズルのピースを集める作業をしている。

もし、このコラムを見てくださった方が興味を持ち、本番に応援に来ていただけようなら、小躍りを踊ってしまうほど嬉しい。
そんなおぢさん達の「本気の悪ふざけ」を都度、何かしらのカタチでお知らせできたらと思う。

(2022.03.11:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。


第9話:見た目は大人、頭脳は子供のおぢさんはコラムを書きながら少しへこむ

「見た目は子供、頭脳は大人」
コナン君のキャッチフレーズだ。

まて、高校生は大人なのだろうか。

2022年の4月より成人の年齢が18歳に引き下げられる。
であったとしても、コナン君は高校2年生のはずなので成人ではない。
では、大人とは何なのであろうか。

「大人と成人の違い」と検索したところ、政府の広報オンラインが出てきた。

2022年の4月より成人年齢が引き下げられることによって、何が変わり、何が変わらないのかを解りやすく説明されている。
このサイトに書かれてある見解だと、「18歳から大人に!」とあるので
「大人=成人」という認識で良いのだろう。

そんな中、面白い文献を見つけた。
「違い.site」というサイトでは、大人と成人は明らかに違うというのだ。
そのサイトによると、
大人は「社会的な責任を持っており、十分な分別がつく人のこと」。
成人は「一定の年齢を超えて、未成年ではなくなった者のこと」。
と定義づけている。

大人は内面を基準にし、成人は年齢を基準にして考えられるので、明らかに違いがあるのだそうだ。
なるほど、そういう考えも一理ある。
しかし、そうなると、小学生として生活しているコナン君は「謹労・教育・納税」の義務を果たしていない。
コナン君は社会的な責任を果たしているのだろうか。
そもそも、ここで言われている「責任」とは何なのか。
「責任」とは、立場上負わなければならない任務や義務のことだ。
そうなると、社会的な任務や義務はないが、十分な分別が付くコナン君は大人なのだろう。
この定義で行くのであれば、「見た目は子供、頭脳は大人」のキャッチフレーズも納得がいく。
なぜなら、大人という言葉を「概念」としてとらえるのであれば、「社会的な責任」の部分は、さほど重要でなく、大人=十分な分別がつく人のこと。
という認識になるのであろうから。
という屁理屈を延々と考えていたのだが、内面的な定義で大人を決める場合、私はどうなんだろうと立ち止まって考えてみた。

一応、経営者であり四十後半のおぢさん。
「謹労・教育・納税」の三大義務は果たしていることからも、「社会的な責任」は持っているだろう。
しかし、先ほどの定義でいくと、この「社会的な責任」という部分は該当はするが、あまり重要ではない。
では、「十分な分別がつく人」の部分はどうだろうか。
「あなたは十分な分別がつく人ですか?」と、仮に聞かれたとする。
その時、「はい。私は十分な分別がつく人です。」と言いきれるかというと、言いきれない自分がいる。
いささか「?」が出てしまうのだ。
なぜなら私はマイペースで、自分独自の考え方や行動など、いわゆる空気が読めないような言動をすることがある。

もうすぐ50歳になろうというのに、ある意味、精神的に大人になりきれない。
表面的には立派な大人なのだが、内心、非常に傷つきやすく臆病者のおぢさんなのだ。
となると、私は先ほどの定義で行くと「見た目は大人、頭脳は子供」というキャッチフレーズとなる。
うむ。可愛いじゃあないか。私。
厨二病ですやん。

そう思い、ニパニパしながら何気なくネットで検索をして行くと段々と変な方向に進み始める。
精神的に未熟な大人の特徴、心理を「ピーターパン症候群」というらしい。違う違う。
そうじゃ、そうじゃない。
これは個性で病気ではない。
こっちとら「社会的な責任」を果たしているのだから。
ただ、少しだけ心の中にトイザ○スキッズがいるだけなのだ。
子供でいたい。
ずっと、トイザ○スキッズ。
大好きなおもちゃに囲まれて。
大人になんかなりたくない。
僕らはトイザ○スキッズ。
ヤバい。追い打ちをかけている気がする。
私はただ、コナン君の「見た目は子供、頭脳は大人」というキャッチフレーズが少し気になり、色々と調べてみただけなのに。
おぢさんだけど、子どもっぽいことが好きなだけなのに。
なぜこんなことになってしまったのか。

そもそも、私の心の中にいるトイザ○スキッズは個性の一部であり、私の全てではない。
ピーターパン症候群といわれる症状の一部が当てはまっていただけで全てが当てはまる訳ではない。
人を勝手に病気にするなとプリプリしながら検索を続けると、パーソナリティ障害に似たコンセプトだが精神医学の正式用語ではないらしい。
あぶない。多様化が進む現代社会、ましてや今まで普通だったものが普通でなくなる昨今において、少しばかり異質なものを「病気」と表現してしまうのはいかがなものか。

もしかしたら、これまで普通という基準に頼ってきた感性を見直す時期が来ているのではないか。
これからは個性を尖らすことで自分がどのように生きると幸せになるのかというデザイン力を持つ人間が、人生の幸福度を上げていくことにつながる時代となって行くであろう。

私の中のトイザ○スキッズは、人生の幸福度をあげる個性の一部なのだ。
と、もしかしたら心の病気かもしれないと傷つきやすく臆病者のおぢさんは自分を勇気づけるのである。

(2022.03.04:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。


第8話:営業電話にホイホイと出向くおぢさんはソコソコ痛い目にあっているらしい

以前、電話営業にあった経験をコラムとして書かせていただいたが、おぢさんレベルになると他にも様々な経験がある。

今回はそんな営業電話から軟禁されたおぢさんの話である。

その営業電話の会社はクレジットカード会社から委託された会社ということだった。
なんでも当時、私のクレジットカードの使い方が優良であり、その優良な方に向けてのお得なサービスを提供する為にセミナーを開催するので来場するようにという、斜め上から目線の、どう考えても怪しい臭いがプンプンする営業電話であった。

まず、クレジットカードを扱っている会社が個人情報を他会社に委託している時点でアウトな気がするが電話先の営業は、そこを逆手に取り、「それくらい信頼がある会社」というところを全面に出す。
「なるほど、行かなくてはならないのか。それならばしょうがない」という天然な部分と
「お得なサービスを受けるか受けないかは別として一度話を聞いてみるのは面白そうだ」
と好奇心からセミナー会場へ行く承諾する。

なぜ若い頃は怪しい話が輝いて見えるのだろうか。
しかし営業電話があってから、セミナー日時が後日になるため、セミナーへ行くのが億劫になる。とくに怪しさ満点の話なので、勢いと熱量が無くなった瞬間に行きたくなくてしょうがない。

「まあ、いっか」
セミナーに行くことを諦める私に対し、「早くセミナー会場に来るように」という電話が鳴りやまない。

面倒臭いが行かねばならない。
何故ならば男が一度交わした約束を反故する訳にはいかないのだ。
と、つい先ほどまで「面倒くせぇ」と反故しようとしていた人間とは思えない考えで、セミナー会場へと向かう。

セミナー会場のホテル先には身なりの綺麗な男性が私のことを待ちかまえる。

ヤバい。怒られるかな?
と気が小さい私は少しビクビクしていたが、その男性曰く「セミナーはもうすでに始まっている。

そのセミナーは途中入場、退席ができない。
なので、「今回は特別に私の泊まっている部屋にて直接内容の説明をさせていただく」
と男性の宿泊部屋へと案内される。

そこから「軟禁」という名の攻防戦が始まる。
まず、営業電話であった「お得なサービス内容」というのが、月々数千円支払うことで、その会社が提供する商品をお安く購入できるパンフレットが郵送されてくるという、私の感覚では、あまりお得とはいえないサービス内容であった。

そのパンフレットには時計や家具などの高級品からシャンプーや洗剤などの日用品まで網羅している。

「頻繁に購入するのであれば確かにお得かもしれないが、滅多に購入しないのであれば割高になるのではないか?」

という問いに対しても、日用品のページを見せ、普段購入しているものと価格を比べていかに安く購入できるかと流暢に説明してくる。

そのような質問は腐るほど浴びているのであろう。

流石だなぁと感心しつつ、
「私は一度使ってから自分に合うものを購入している。なので、使ったことのないものを買うことに抵抗がある」
という私の次なる一手にも
「あなたが今どのようなものを使っているのかは分からないが、商品には自信がある」
と商品の素晴らしさを説明され、
「なぜこの素晴らしい商品がお安く手に入れることができるのかというと、市場の商品は宣伝広告費が価格の半数以上であり、我社の商品は宣伝広告費を使わないため、このような形でお安く提供できる」
とお手本のような返しをしてくる。

「いやいや、そもそも私の質問に答えてくれていませんよね? 私は使ってから商品の善し悪しを判断する人間です。」という返しにも

「だから、購入して使ってみてください!」とお互い譲れない攻防が続く。

さすがに何時間にも渡って軟禁されるとキツイ。
「もう帰りてぇ」心は折れかける。

「時間はたくさんありますのでゆっくり考えていただいても大丈夫です」
「よろしければ何か飲まれますか?」アルコールを勧めてくる男性。
いかん。ただでさえ軟禁され判断力が鈍っているのに、アルコールを入れた日にぁ、負け確定である。

「同じことを繰り返しますが、価格が高かろうが安かろうが、私は気に入ったものを使うので、今使っている日用品について変える気はない。たとえば、服や時計、靴などで人気があって購入が難しいものが手に入るのであれば契約するが、そうでなければ私は契約いたしません」
と一言告げた後、その言葉以外発言しないという防御に全力を注ぐ手段に出た私。

日付はすでに変わっている。
ついに観念したのか、
「では時間も遅いので一度ゆっくり考えてみてください。またご連絡します」
と数時間にわたる攻防の末、ようやく解放される。

後日連絡があった電話に「いりません」と速攻に電話を切る。
「若い頃の苦労は買ってでもせよ」という、ことわざがある。
この出来事が、はたして苦労だったのか?という疑問はあるが、こうして振り返った時に、コラムのネタとしておぢさんの記憶に輝き続ける貴重な経験であることには間違いない。

(2022.02.25:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。


第7話:おぢさんになると短所が個性になって、短所が長所に変わってくるらしい

「あなたは今の自分が好きですか?」と問われるのであれば
「いや、好きなんてもんじゃない。大好きだ」と答えるだろう。

これは決して私が能力の高い「完璧超人」であるということをいっているのではない。
むしろ私は欠点だらけのダメダメおぢさんなのである。

しかし、そんな自分を「好きだ」と言わなければ誰が私の事を好きといってくれるのか。
自分の事を愛せない人間に他人など愛せないのだ。

私は、どちらかというとマイペースであり、自分独自の考え方や行動をする方である。
人からも「独特の感性をお持ちですよね」と言われることも多々あり、クリエイティブな仕事をしているので、そのような「クセ」のようなものがあるのかなと自分では少し良い気になっていたのだが、決して褒められていたわけではないようだ。

どうやら世間ではそれを「天然」と呼ぶらしい。

なるほど、道理で言い間違いや聞き間違いが多いはずだと納得をする反面、最近は「これは天然ではなく、老化なのではないだろうか?」と心配になる時がある。

たとえば、弊社では作業中にテレビやラジオをつけている時があるのだが、その際「う○この遅れ」「う○こする」とやけにう○こ、う○こ言っているが、何なのだろうと思ったら、実際は「運行の遅れ」「運行する」であったり、保険会社からのDMに「日本人の2人に1人が一生のうちにガンに診断される可能性があります」という一文を見た時に、「のうちにがんに」の部分が「う○ちがにがい」となぜか脳内で変換され

「日本人の2人に1人が一生う○ちがにがい」とはどういうことだ?何かの病気か?としばらく悩み、もう一度よく読みなおした後に「あ、病気はオレだ。。」と深く落ち込む。

なぜならば、その後何度も見直しても、どのように読み返しても、「う○ちがにがい」とはとても見えないのだ。そもそも無理がある。

しかし、そのようなウソのような読み違いを本当にしてしまっているのである。
これはもう、かなりヤバい。
たしかに、注意散漫になりがちなところがある。
プライベートなら笑って済まされるが、仕事など大事な話になると変わってくる。
取引先と意思疎通ができないと「この会社大丈夫かな」と不安に感じさせ、場合によっては取引を打ち切られる可能性もでてくる。自分の短所は理解しているつもりなので、極力気をつけるようにはしているのだが、いざ余裕がない時や切羽詰まる時はどうしてもおろそかになってしまう。

発言に関しても天然なところが出てしまうところがある。
なるべくマイナス言葉、相手を傷つける揶揄はしないようにしているので、極力言葉は選んで発言はしているのだが、悪気なく思ったことを発言してしまう。

なので、時には誰かを知らず知らずのうちに傷つけてしまったり、失ったりして初めて犯した罪を知るのだ。
文字として振り返ってみるとさすがにへこむ。
これはあきらかに短所である。
しかし、そんな短所もおぢさんになると個性に変わってくる。
私の注意散漫な部分を危なっかしく感じるのか守ってくれる友人がいる。
その友人から言わせると、私は人に合わせて態度や言動を変えることがない人間なので、信頼に値するそうだ。また、集団行動においてもマイペースに行動するので、変わった人だと認識されてはいるが、むしろ長所として捉えられる。

個性とは長所だ。

いままで短所に思えたものが個性となり長所になる。
だから人生とは面白い。
ただ、短所を個性として受け入れ、長所にするのには一貫性が重要となる。

たとえば、「天然」の話でいうならば、対義語は「人工」や「養殖」だろうか。
人工や養殖の人はどこか計算高いところがあり、相手の反応を見ながら態度や言動をコロコロと変える人であろう。

このように書くと私が「あざとい人」が悪い。と言っているようだが決してそうではない。
「あざとさ」も貫けば個性だ。良く言えば、それだけ周りのことを見られる、気遣いができるということになる。

私が言いたいのは「態度や言動をコロコロと変える人」が良くないということだ。
「態度や言動をコロコロと変える人」は自分ことしか考えていない。
そのような人間は誰からも信頼されないのだ。
歳を取るとイライラしたり、キレやすくなるのは脳の萎縮が進み、理性的なブレーキをかける前頭葉が衰えるからだそうだ。

最初の方で例にあげさせていただいた聞き間違いは「天然」でなくもしかしたら私の前頭葉が腐ってきた証なのかもしれない。
前頭葉を鍛えるためには新しいことやクリエイティブなことに挑戦することが有効らしい。
多数派や無難な意見に流されず、ある意味で「自分勝手なこと」をする「天然」な行動はまさにもってつけだろう。

これからも私の天然な部分により、言動や行動が裏目に出て周囲の人に迷惑をかけてしまうこともあるかもしれない。だが、素直で天真爛漫な天然を貫き、愛されるおぢさんになれるよう邁進していきたいと前頭葉の腐り始めたおぢさんはいつも思うのである。

(2022.02.18:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。


第6話:おぢさんは昔、営業電話を楽しむこころを持っていたことを思い出す

昔ほどではないが、今でも「テレアポ」と言われる電話営業が良く来る。

「テレアポ」と言えば、おぢさんが若かりし頃はすさまじかった。
コンプライアンスがゆるい時代だったのもあるが、今となっては違法行為である
「社名を名乗らない」
「威圧的な態度」
「断っても何度も掛けてくる」
などは当たり前のようにされていた。

当時は家の電話に「○○と言いますが、龍一さんはいらっしゃいますか?」と知り合いを装い、電話を替わると営業であったなんてことは日常茶飯事であった。

当時の私は、そのような電話営業に
「もう少し詳しく聞いても良いですか?」
「それはすごいですね」
「メッチャ良いじゃないですか!」と
いかにも興味があるような素振りを見せ、最終的には買わないという娯楽を楽しんでいた。

向こうはカモが飛びついてきたと意気揚揚と説明し、先ほどまで、まるで苦楽を共にした親友のような話し方をしていたのに態度を一変させ、今度は別れ話を切り出された未練タラタラの恋人のように食い下がり、なぜ買わないのかを問い詰めてくる。
「そもそも、あなたの説明だけで今すぐ契約しろとか無理な話だと思いませんか?」
という問いに対しても
「他の人たちは皆さんされてますよ?あなただけですよ?」と罵られ、
「じゃあ、そちらに行けば良いんですか?」と半ギレでアポイントを取ろうとしてくるのを「来ても良いけど、一度検討するから、その場では契約しないし、契約するとしても、お前からは絶対に買わない。」という私の説明に対し、「話にならない」「時間を無駄にした」と捨て台詞を吐きながら一方的に電話を切られた後、「やはり納得いかない」と掛け直してきた電話に「なぜ営業を掛けてきたお前を俺が納得させなけりゃならんのだ?」いう火に油を注ぐ発言をし、何時間にもわたるディべートを楽しむという、なんとも歪んだ青春時代を送っていた。

何も頭ごなしに否定だけをする訳でもない。
「テレアポ」の方から「説明したいのでお会いできませんか?」という問いかけに応じることもある。

社名を名乗らない女性からの営業電話。
女性からの電話となると、こちらも一層テンションが上がる。
なんでも、当時流行したヒロ・ヤマガタやラッセンなどの展示販売を行っているとのこと。

一旦、待ち合わせをしてそれから販売会場へ向かうという。
待ち合わせをするに際し、「芸能人に例えると誰に似ている?」という私の問いに対し、当時グラビアアイドルをしていた「雛形あきこ」と答える女性。
それは行かなくてはならない。何としてでも。

しかし、待ち合わせ場所にいた女性は「雛形あきこ」とは程遠い。
とりあえず、「自称雛形あきこ」とお茶をしながら談笑。
その後、販売会場にて絵の説明を受けながら、
「ねぇ、この絵とこの絵、どっちが好き?」と「自称雛形あきこ」とイチャイチャしながら、まるで美術館デートをするカップルのようなプレーを楽しみながら、ひと時を過ごす。
「自称雛形あきこ」は要所要所で「ちょっとごめんね。」と席を外す。
きっと上司に進捗を報告に行っているのだろう。
展示会場のラストにはパーテーションで区切られた小部屋に通される。
そこで「自称雛形あきこ」と商談が始まるのだ。

もちろん私は買わないと心に決めている。
「自称雛形あきこ」は絵の素晴らしさと価格がいかに妥当なものかを説明し、何なら、今後その絵の価値が上がるだろうという話をしてくる。

「そもそも原画じゃなくてリトグラフだよね? リトグラフであれば高く感じるし、今後価値がそれほど上がるとも思えない」と頑な私に対し、私が人生で、いかに無駄遣いをしているかというシュミレーションを行い、
「こんなに無駄なお金を使っているぐらいなら、そのお金でこの絵を買った方が全然良い」と「自称雛形あきこ」は私の人生設計をしてくれる。
「あなたには無駄に感じる行いも私にとっては大切な行為です。」と価値観の違いについて昏々とやり取りを行った結果、「もういいよ」と「自称雛形あきこ」から突然の別れを切り出される。
「ありがとう。楽しかったよ」と彼氏ぶる私に対して「私は全然楽しくなかった」と彼女。
さすが女性は常に前を向いている。そんな彼女を遠目で見ながら
「次はいい男を見つけろよ」と、その場を後にする。なんと淡い思い出だろうか。

最近来る「テレアポ」に対し、少しイラッとしながら「結構です」と電話を切るたび、なぜあの頃はあんなにも寛大に「テレアポ」とのひと時を楽しんだのだろうか?と立ち止まって考えることがある。
よっぽど暇だったのか、それとも私が大人になったからなのか。
コンプライアンスが厳しい昨今、そのような人間味の溢れる電話営業は二度とないのだろう。

最近すぐにイライラする更年期気味のおぢさんは、昔を思い出しながらもう少し寛容な心でいなければならないと少し反省するのである。

(2022.02.10:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。


第5話:地域活動を行うおぢさんは日本のこころを大切にしながら多様性を楽しむ

過去のコラムではおぢさんの日々の徒然を垂れ流してきた。

最近気づいたのだが、私のコラムは「地域活動」の分類にはいっているようだ。
地域活動と言っても、ただ「ボランティア」を行っているわけではない。

プロフィールにも書かせていただいているが、私は「働くということは社会に貢献すること」を信条としている。
地域が良くなれば自分の仕事にも帰ってくるという考えからなる

言わば、「未来への投資」なのだ。

地域に根付いた活動に携わっているからか、様々な年代、職種の方々との交流があり、いつも新鮮な刺激を味わえているのは冥利に尽きる。
同じチームで同じゴールを目指す仲間。
そこに年齢の壁はない。

ただ、どうしても崩せない壁がある。そう、世代の壁だ。
普段は何気ない話で盛り上がっているのに、世代の話になった途端、言い知れぬ孤独と疎外感を感じてしまうのだ。

私たち日本人にはDNAの様に宿る国民性「日本のこころ」というものがある。
「日本のこころ」は私たち日本人の誇るべき精神文化でもあり、それを自らの強い力とし、その意識と行動をもって、私たちは夢と希望に満ち溢れた未来を創造していると言っても過言ではない。

その誇るべき精神性への自負こそが確かな当事者意識と自律心を生み、様々な問題解決へと繋げていくのだ。
私たち日本人に古来より脈々流れ、育んできた「日本のこころ」の三原則

それは「友情・努力・勝利」なのである。

世代が変わればカルチャーが変わる。
現代の日本人に宿る「日本のこころ」の三原則「友情・努力・勝利」は
キン肉マン、聖闘士聖矢、北斗の拳などではなく、
ヒロアカ、ハイキュー、呪術廻戦などなのだ。

「ジョジョの奇妙な冒険」の話題で「波紋」の話をしても
「ジョジョってスタンドの話じゃないのですか?」とあしらわれ、男らしいキャラクターが好きだという話で「男塾」の剣桃太郎や伊達臣人の話などは論外。

「聖闘士聖矢」でドラゴン紫龍の尊さやフェニックス一輝の強さを熱弁したとて、もはや存在すら認識してもらえない。

「ビックリマンチョコ」や「キン消し」の話をしても全く通じないのである。
しかし、このような世代間のギャップがたまらなく面白い。
「面白さ」というものは常にイレギュラーの中から生まれる。
様々な地域活動をするにあたって、ダイバーシティという取り組みは大切となる。
ダイバーシティとは「多様性」のことだ。年齢、性別、国籍等にかかわらず、「多様性」を受け入れてこそイノベーションを興すことができる。

だとすれば、ジェネレーションやカルチャーのギャップは「イノベーションの源泉」であると言い換えることができるのではないだろうか。
多様性を受け入れるということは、お互いの違いや、考え方を認識することなのだ。
そのような関係性が世代間の「断絶」ではなく、「ポジティブな人間関係」と「学び」を与えてくれるのだ。

おかげ様で世代間を超えた友情と刺激をもらいながら、日々楽しく過ごさせていただいている。
その様な関係性の中、「あ、上野さんってそんなに年上だったんですね」と、それなりに若くとらえてもらえたり、年齢の話をすると「全然見えないですね。」と言っていただけることもしばしばある。

そういう時は「そんなことないですよぅ。」と謙遜しつつ、ニマニマしているのだが、
「いや、ちゃんと順調に老けているから、あんまり調子に乗るなよ。」と
ありがたいことに妻がいつも、たしなめてくれる。
確かに体力は衰え、髪の毛も薄くなってきたし、髪以外の全身に白髪も出てきた。
「人生50年」と謳われていた時代であれば、そろそろお迎えがいつ来てもおかしくない年頃であり、もはや、「おぢさん」ではなく「おぢいさん」なのだ。

「ジョジョの奇妙な冒険」に出てくる波紋とは独特の呼吸法であり、その呼吸法により生命エネルギーを活性化させることから、老化を遅らせることができるらしい。
30年以上たった今も密かに私は、波紋の呼吸法の研究をしている。

習得するには、まだまだ時間が掛かりそうだが、様々な刺激を頂きながら、私という「人間賛歌」をこれからも楽しんで行きたい。

(2022.02.04:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。


第4話:新潟に住むおぢさん達は新潟劇王に参加していたらしい

先日、一通のLINEが届いた。内容はこうだ。
「第二回新潟劇王によろしかったら再チャレンジしませんか?」

昨年の話だが、
2021年より新潟劇王という短編劇のコンテストが始まりエントリー団体を探しているという話をひょんなことから耳にした。
やはり、コロナ禍ということもあり、出場者集めも難しいのだろう。
そう思った。
ここで私の悪い癖がでる。
そう、私は「やりたがり」なのだ。

「ヤバい、すげぇ面白そうだ。」

今回が第一回目。
「第一回新潟劇王」ということは「初代劇王」ということだ。
なんて甘美な響きであろうか。
そんな不純な目的で、まるで光に群がる羽虫のごとく、ふらふらと近寄る。
そんな勢いと欲望により、私が活動しているユニット「ニイガタ工務店」で参加することになった。
ちなみに「ニイガタ工務店」というユニットは「新潟を創るのは俺たちだ!」という想いで仲間たちが集まって作ったクリエイティブ集団である。

さて、エントリーをしたのは良いが私は演劇をやったことがない。
演劇という世界のルールというか、型枠がまったく分らないのだ。
勢いでエントリーをしてしまったがどうする?
しかも、一緒に出ようと誘ったメンバーからは、

「セリフが無ければいいですよ。」

という無理難題を課せられている。

やったことのない演劇、しゃべらない演者。
はたしてこれで演劇ができるのだろうか?
すべてがイレギュラーなのだ。
しかし、私も40後半のおぢさん。ここは経験がものをいう。
心身ともに追い込まれ、ご飯を食べても味がせず、まるで砂利を喰っているような経験。

そのような血ヘドを吐いた経験があるおぢさんには、多少のイレギュラーは「面白い」に脳内で変換されてしまうのだ。

そういえば、お笑い芸人のハライチ岩井氏が、
「俺たちは早く売れたいから王道の漫才をやらないで自分たちのシステム漫才を作った」
と言っていた。まさにその通りだ。

私たち素人が、王道の劇団に勝つためには、亜種で飛びきりに尖った「俺たちだけの演劇」をやるしかないのだ。

どうせやるのならば、本気の全力で悪ふざけをしようぜ!
という訳で初めて作るシナリオ、初めての演出をゴリゴリに尖らせまくる。
演劇とは芸術だ。それは自由であり、時には受け入れられないこともある。
ただ、必要なことは「楽しむ」ことだと考える。

時には難解に思うこともあるだろう。
だが、それすら楽しんでもらいたい。
勝手ながら、私の中で演劇をそのように定義づける。

定義はできた。次はシナリオと演出だ。
私たちの演目を例えるならば、鋭利に尖らせた鉛筆の芯。
鋭利に尖っているので触るものを傷つける恐れはあるが、もろく、はかない。
ぜひ、鋭さを怖がるのではなく、楽しんでいただきたい。

そんな、様々な布石を打ちつつ、本番が始まる。

順番は
1.ガチムチの劇団。
2. i-MEDIAで学ぶスターの卵。
3.私たち悪ふざけおぢさん。

場所は新潟演劇の聖地、りゅーとぴあ。
さぁ、ここからが俺たちのステージだ!
やっていることは亜種のくせに、王道の死亡フラグが頭の中を駆け巡る。

結果は惨敗。
芸術というものは、いつの世も受け入れられないものである。

演劇発表後、代表者がステージ上に集められ審査員から総括を頂く。
一人の審査員からは「演劇をバカにしている」と激怒される。

無理もない。
自分たちが本気で取り組んでいる舞台上でおぢさん達が悪ふざけをしているのだから。

しかし、もう一人の審査員からはベタ褒めされる。
「このシナリオを作った方は頭がおかしい。しかし、演劇とはこうでなければ面白くない。そういう面では、ずば抜けている。この演劇は東京などでやるべきだ」と。

審査員票を見ると本日の最高得点と最低得点を叩き出している。
審査員票だけでいえば、ガチムチの劇団に勝っているのである。
ステージ上で40歳を過ぎたおぢさんがガチで怒られたり、ベタ褒めされたり。
物事というのは振り幅が大きければ大きいほど面白い。
ある意味、私の狙いは成功したのである。

終了後に審査員の皆さんが楽屋にきてくださった。
なんでも出場団体の中で一番にご挨拶にきたとのこと。
「会いたかった!楽屋挨拶に一番にきた意味、分りますよね?」
ステージ上で私に激怒した方も笑顔で話しかけてくれる。
なによ。そのツンデレ。好きになっちゃうじゃん。

もちろん、言いたいことは分かっている。
こちらがいくら本気とはいえ、所詮は悪ふざけ。
型破りなことをする。
それをしても良いのは型を持っている人だけなのだ。

私たちには何の型すらない。
「型無し」なのだ。
これは、私たちのセンスに共感していただいたエールなのだ。
私はそう捉えた。

今回、お誘い頂いた一通のLINEを見返し、そんな昨年の情景を思い出した。

「型無し」の私たちだが演劇界から拒絶されたわけではないらしい。
しかし、あのインパクトは初回だから出せたのではないか?

さてさて。今年はどうしたものか?

そんなことを考えている私のワクワクはすでに先走りをしている。

(2022.01.28:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。


第3話:おぢさんはハチに刺された時はとりあえず病院に連絡した方が良いと学ぶ

自分の洗濯物は自分で洗う。

なぜならば私と奥さんの「洗い方の好み」が間逆だからである。

私は洗剤にしろ、柔軟剤にしろ、たっぷり入れるのに対し、奥さんは洗剤少なめ、柔軟剤はむしろ使わない。

柔軟剤を入れると汗等の水分を吸着する力が減るそうだ。

しかし、そうなると、私的に衣服やタオルのゴワゴワ感が気に入らない。

何よりも「汗をかいても臭いをブロック!」と謳われている昨今の柔軟剤を使わないと50代目前のおぢさんの体臭がヤバいことになる。

半日も経たないうちに体内に柴犬でも飼っているのか?
それとも私はソラマメが生まれ変わった妖精なのか?
と思うような豊潤な臭いを周囲にまき散らすことになってしまう。

それならば、自分の物は自分でやりますわ。ということである。

洗濯物を干す時も私はハンガーにかけて干すという、チョットしたこだわりをもっている。

そうすることによって、たたむという手間を省くのと、たたんだ時にできるシワを防ぎ、そのまま仕舞えるので、とても合理的な手法であると自負している。

さて、話を本題に戻す。
先日の朝、仕事へ向かうための支度をしていた。
いつも通り、ハンガーから作業着を取り出し着替える。
何気ない、いつものルーティーンだが、その日は違った。
作業着に袖を通した時、手首に「チクッ」と何かが刺さった。

痛みにも様々ある。擦り傷の痛み。刃物などで切った痛み。針などが刺さった痛み。
その時の痛みは明らかに「何か細い針のようなものが刺さった痛み」であった。

仕事がら、作業時の金属片が衣類に付着していたかな?

それとも木くずとかのトゲでも付いていたかな?と思い、作業着をひっくり返し確認すると「親指ぐらいの何か」が落ちてきた。
「親指ぐらいの何か」は黄色と黒の、いかにも「WARNING」という危険色。

「ブッブブッ」と羽音を立てている。

蜂である。

「んひぃぁぁぁぁ!」
声にならないおぢさんの図太い悲鳴。なぜ蜂?冬場に?部屋の中に?しかも服の中に?
なんでなん?どこから入ったん?部屋に巣があるん?他にもおるん?なんなん?

もうパニックである。
朝から50代目前のおぢさんがフガフガ言いながら騒いでいる。
落ち着け。否、落ち着いていられない。
なぜなら私は幼いころに蜂に刺されたことがあるからだ。
蜂は一度刺されると体内に抗体ができ、2回目以降に蜂毒が体内に入ったとき、もともと身体の中に存在する抗体の作用によって、全身症状が引き起こされ死に至ると。
だからお前は蜂に刺されると死ぬよ。と幼いころから親に脅され生きてきた。

ヤバいヤバい!そういえば何か息苦しくなってきた。心臓がバクバクしている。
なんか目の前も霞んで見える気がする。チョット熱っぽくなってきた気もする。
そんなガッつり刺されていないよな?患部を見ると血がプッくり出ている。

ガッつり刺されてますやん。

このまま死ぬのか?俺?とりあえず病院か?
そういえば、蜂毒ってタンパク質だから熱に弱いって誰かが言っていたよな?
患部を炙るか?やだ!怖い!

もはや思考回路がまともではない。一旦落ち着け。
スマホで「ハチにさされた」と検索。私を刺した蜂はアシナガバチのようだ。
蜂毒は反応時間が早く、刺されてから15分ぐらいには症状が出るとのこと。
症状が早くあらわれるほど重症になることが多く、場合によっては
アナフィラキシーショックを起こす。アナフィラキシーの症状が出てから心停止までの時間は15分ぐらいなので速やかな治療が必要とのこと。

刺されてから、かれこれ30分ぐらい経っている。とりあえず死ぬことはなさそうだ。
しかし、油断はできない。容態が急変するかもしれん。とりあえずは速やかに蜂の確保。
何かがあったら、この蜂から抗体を作るのだ!と、何で知ったのか分からない。
小学生のような知識が私を奮い立たせる。

とりあえず蜂を捕獲して保管しなければ。
丸めた雑誌を片手にアシナガバチとの格闘。
冬場ということもあり、動きの悪いアシナガバチを何とか捕獲し、ビニール袋に保管。

奥さんに蜂に刺された旨と一連の流れを報告し、仕事場へ向かう。

その日は一日気が気ではない。患部はプッくりと腫れ、かゆみがある程度。
もう一度蜂に刺された場合の対処をスマホで調べてみる。

蜂に刺された場合、蜂毒にアレルギーがなければ、刺された箇所に軽い痛みやかゆみ、腫れなどが起こり数日程度で消えていくとのこと。とりあえず大丈夫そうだ。

しかしまだ油断はできない。となり合わせの死がいつ訪れるか、わからない。

精神的に疲労困憊の中、その日は早めに帰宅。

「あの蜂どうした?」と私の問いに
「生きていたから潰してゴミに出したよ」と妻の回答。

晩酌に飲んだビールの味はいつもより苦い気がした。

(2022.01.21:コラム/上野龍一)


【 上野龍一 】
~プロフィール~

1975年4月28日生まれ
新潟県新潟市出身
「有限会社看板の上野」代表

経営者として人生経験を積む傍ら心理学、コーチング、エゴグラム心理分析などを研究。
自らを実験台に実績を繰り返して企業や学生への講師やコーチング、セミナーなどを開催する「可能性創造研究所」を設立。

また、地域イベントの企画、運営をするユニット「ニイガタ工務店」としても活動中。

「働くということは社会に貢献すること」を信条とし、様々な地域活動や企画運営を行っている。